7月のドイツ日記

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旅の終わり(7月第4週)

 


先々週パリ、先週イタリア、そして今週はチューリヒへいずれも短い旅行をした。昨夏、こちらへ来て以来、ドイツ国内は少し旅行したが、基本的には静かな暮らし。しかしもう海外研修の終わりも見えてきてバカ高い家賃を払うのもあと半月分なので、ここらで一生一度のこの機会を有効に使おうというわけだ。このあと我が家の行事としては来週長男がアイントラハト・フランクフルト主催のサッカースクール5日間に参加して、すべて終了。おそらくこの文章がドイツでアップする最後のドイツ日記になる。サッカースクールの顛末について知りたい人もいるかもしれないが、それはまた後日ゆっくりということで。

 当たり前の感想であるが、長いようで短かった気がする。私の研究活動のスタイルは完全個人主義なのですべて自分で計画・立案そして実行するわけだが、課題であった学校訪問&校長インタビューのために研究所の部屋から手当たり次第に電話をかけ始めたはもう10ヶ月も前のことだ。そんなに時間がたったかなあ、とつくづく思う。かけるたびに、うまくドイツ語が通じますように、愛想よい返事がもらえますようにと受話器に向かって祈ったものである。あれから10ヶ月、ドイツ語はうまくなったかどうか心許ないがそれなりに度胸はつき、その後のアンケート調査とあわせてそれなりに海外研修の意味はあったと思う。またすでにこの日記の中で度々触れてきたように、子どもたちの適応力には驚くべきものがあった。若さはすなわち可能性だ。

 もう一つ当たり前の感想であるが、人は世界中のどこにいようとも、カネに換えることのできない心でつながって生きているのだということを繰り返し痛感した。そこまでする「必要」なんて全然ないのにそんなことまで私たちのためにしてくれるのかぁ、という驚きと感謝。私は日本で、自分の職場で、いろいろな意味で異文化からやってきた人(この中には学生も含まれる。彼らはまるっきり「異文化」だからね)にそんなに親切ではないなぁ、と思う。そんなわけで、様々な援助をいただいた人々に感謝感謝。

 この日記は当初思ったほど頻繁には更新されず、また話題の広がりにも欠けたかもしれない。不平不満や浅薄な批判は書かない、というのが執筆方針だったため、いくつかの例外を除いてはそうした話題は書かないようにした(そう見えないかもしれないけど)。更新の頻度が低い時期はきっとめげることの多い時期だったんだろうと考えてもらえれば幸いこれにすぐるものはない(^^;

 身近な同業者やご近所の方々の他、どんな人が読んでくれたのか(このページはアクセス解析をつけていないのでわからないのだ)。ある時期から一日あたりのアクセスが増えてきたような気もする。教育について、異文化について、あるいはひょっとして留学について関心を持つ人の参考になることがあったなら幸いである。(終)



仰げば尊し(7月1週)


口ずさむだけで涙腺がゆるみそうな歌って、いくつかある。その一つが「仰げば尊し」。もはや卒業式などで歌われることはないらしい。「今こそ別れめ いざさらば」の「め」が「目」ではなく、「む」の已然形(こそ+已然形という係り結び)であることなども、もはや前世紀の世迷い言としか聞かれまい。

 6月26日、長男長女ともに1年間の在学修了。思えば昨年8月、文字通り右も左もわからぬ長男長女を現地校へ放り込んでから長いようで短い1年間であった。テンポよく長期休業がはさまるせいか、物珍しい年中行事が多いせいか、それぞれに楽しげな(少なくとも後半年くらいは)学校生活であった。

 前にも書いたかもしれないが、長男は日本の学年で言えば3年の2学期にこちらへ来た。今年の4月からは4年生という計算である。しかしこちらでは、現地の学校の校長の判断で2年生へ編入。学年の切れ目の関係で第2学年を丸1年やったことになる。そりゃドイツ語を何も知らないのだからそれでも苦しいことが多かったろうと思うが、算数と体育という重要な(!)科目でそれなりに存在感を示すことができたようで、休み時間に一緒に遊ぶ友達もできた。私が早朝から出かけない日は必ず学校の門まで一緒に登校した。ある時期から、なぜか門から校舎まで長男は小走りに、いそいそと駆けていくようになった。そんな長男の姿は、ともすれば滅入りがちな私の留学生活の小さな励ましであった。ちなみにこちらの学校ではいろんな都合で入学を1年遅らせている子どもは珍しくないようで、実際、そういう子どもがあそこにもここにもいるのであった。

 それにつけても、結局ほとんど会話できるほどにしゃべれるようにはならなかった長男、いったい何を楽しんで、どんな風にクラスの友達とコミュニケーションをとっていたのか、ほんとに疑問である。日本がロシアに勝った次の日なんか、日の丸つきの「おめでと」手紙なんかもらってきたりして。

 担任のマイヤー先生、初めは取っつきにくい感じだった。冷たそうで。あれれこの人はさすがにドイツ語まるっきりできないガキなんか入ってきて迷惑だろうな、そりゃそうだな、ってな感じだったのだ。しかしこれもまたいつの頃からか、長男はこの先生がだいぶ好きになったようで、マイヤーはギターがうまいよ、マイヤーは歌がうまいんだよ、などと楽しげに話すようになった。わが長男は、最初の数週間を除き、数多くの席替えにもかかわらず、一貫して教室の後ろ、出入り口のそばの「島」(いわゆる班ごとの島のように机をくっつける配置なのだ)の、一番出入り口よりの席をあてがわれた。これを「おみそ」と呼んでもいいだろう。特に目をかけてもらえるということもなく、つまりは淡々と日々は流れた。一度くらい、担任の先生をお茶にでも招待して、なんてことも思ってはいたが、結局実現できなかった。まあしかし、そんな淡々とした感じがむしろ長男にとっては気楽でよかったのだろう。

 最後の週、クラスの友達に配ってもらうべく日本から送ってもらったポケモン・ノートを先生に届ける。最終日の朝、小さなプレゼントとつたない手紙を渡してお礼を言う。先生からは帰り際に簡単な通知表の他に小さなメッセージカードをもらう。それでおしまい。形式的には「転校」することになるのだが、簡単な通知表以外には特にそのための書類などないそうだ。事務室で、ほんとに何もないんですか?と聞いたら、しまいには昨年こちらへ来るときに日本から持参して学校へ出した書類をそのまま「返却」してくれた。

 そして長女である。今年はちょっと例外的に担任の先生も退かれるので、前週に先生のお別れパーティーが(またしても夜8時から、学校で)開かれた。例によってちょいと風変わりで、料理一皿持参の楽しげなパーティーであったが詳細は略す。そして最終日、長男の学校で先生に挨拶をしてから長女の学校へ。ロビーにいたら、なにやらすぐそばの公園へ最後のクラス写真を取りに行く担任の先生に発見されてしまった。「あら、Herr Maehara, 一緒に公園に行きませんか?」と軽やかに誘われて、子どもたちの流れについていく。写真を一緒に撮ったあと、子どもたちはしばし自由時間。私は先生と雑談。そのあと、「ホールに行きますよね?」と言われて、終業式ふうのセレモニーを参観。6年生くらいのクラスのオーケストラ演奏、みんなで合唱など。このあと事務室の方に挨拶をして私は帰宅、長女にはこのあとクラスのみんなからお別れのプレゼントなどがあった模様。

 じつは1週間ほど、どうもクラスメートの動きが怪しげだったそうだ。突然、3人くらいの仲間が「○○先生のところへ手伝いに行くから一緒にいこ!」などといって長女を連れ出し、その手伝いが終わると一人がいかにも様子を見に先に教室へ戻ってから長女も入室を許されたりして。最終日もそんな風に長女は教室の外へ連れ出され、そしてもどったところで一人一人のメッセージの書かれた記念のアルバムと小さなプレゼントをいただいた。長女からも、ほんとに小さな感謝のプレゼント。長女にとって、そして私たち家族にとって、ほんとに幸運な1年間であったといっていいだろう。

 さて通知表である。すべて文章のみである。手書きである。読めない部分が多いので、特別にワープロで浄書し直したものを後日置くってもらうことに。すべての科目の担当の先生が、一人一人の子どもについて何か書くのだ。その作業量は想像するだけでも大変。クラス担任の先生は、37,8人分を、ひとりあたり便せんに4枚分程度書くのである。

 長女に対する通知表の評価についてはまた別に機会を得るとして(実はまだちゃんと読んでいないだけなのだが)、通知表の冒頭は例によって一つの詩編であった。そこだけ、拙訳で以下に掲げておこう。

 


自分がなにものであるかを知りたいのなら
他人が自分を見る如くに自分を見るがよい
他人がなにものであるかをわかりたいのなら
自分の心のなかを覗きこむがよい
F.v. シラー

 

 先生はこの詩編にどんなメッセージを込めたんだろう? 私より少々年若く、少し遠回りして自由ヴァルドルフ学校の教師となる道を選び取ったというエルム先生。いつの日か、長女がこの詩編の意味を自分なりにつかむことができることを願いたいと思う。多謝。



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